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質屋と宇都宮UTSUNOMIYA

質屋と宇都宮(史観)

宇都宮の歴史は、平安時代から始まる…。

宇都宮の歴史は、平安の時代から始まる。宇都宮城主初代として記録にあるのは、藤原宗円
がしかし、宇都宮の名を残した宇都宮氏は鎌倉時代の宇都宮朝綱から始まる…。
画像 宇都宮城主の移り変わり

画像 藤原定家

時は奥州征伐頼朝の時代。
その頼朝の二代後に宇都宮頼綱がいた。法名を蓮生といい、明月記で著名な藤原定家と親交が深かった。

※藤原定家(画像提供:ウィキペディア

明月記とは、定家の1235年までの56年に渡る日記と云われている。
その中の1234年(文暦元年)8月の記述に『土倉員数を知らず。商賈(しょうこ)充満す。』とあり、この土倉(どそう・とくら・つちくら)が質屋の前身ではないかと言われており、これが質屋の歴史は700年、800年(781年前?-平成27年換算)と云われる根拠である。
画像 明月記
 ※明月記(画像提供:東京国立博物館

1234−56−781…?(質屋一番!?)

よく筆者はこの語りのきっかけにこの数字の羅列を述べる。「明月記の中の1234年に紹介のある土倉、56年に渡る日記が質屋の歴史の原点。今から781年前と…。(平成27年換算)
明月記は、彼の日記の中で土倉のような日常の社会活動を記述しているばかりでなく、天文学的な記述もしている。当時一つの文献に三つもの超新星爆発について書かれているのは世界唯一で、現代の天文学の最先端の研究にも役立っているとか。

話題を元に戻そう。
宇都宮頼綱。定家と親交の深かったことは述べたが、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。
また彼は父親譲りで歌人としても優れ、この意味で定家と繋がりが強かったとも云われている。日本三大歌壇として謂わしめる礎を築き、百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まると云われている。

質屋と宇都宮、そして小倉百人一首が繋がった。
宇都宮頼綱 → 藤原定家 → 明月記 → 質屋 、百人一首。かるたは何と宇都宮に関わるのである。

写真 興禅寺

暫く質屋から離れる。当店北数百メートルの所に古刹「興禅寺」がある。正門左手には8代宇都宮貞綱像が鎮座しているが、貞綱は上記頼綱の3代後の城主となり、本寺を開基している。ちなみに貞綱の法号は「興禅寺」である。

興禅寺(画像提供:ウィキペディア

画像 お寺マップ

写真 清厳寺 鉄塔婆

弱冠16歳の貞綱は蒙古襲来に大将軍として時宗の命により九州へ出陣している。
貞綱は又、当店向かい田川右岸に在る古刹「清厳寺」に亡き母の13回忌弔いの為、国の重要文化財となっている「鉄塔婆」を建立している。この鉄塔婆は、現存する日本最古の鉄製塔婆とされている。
当寺は筆者の幼稚園でもあり、園児時代良くこの鉄塔婆に纏わり遊んだものだが、流石に今は囲いがされ近付くことも出来ない。
清巌寺-鉄塔婆(画像提供:ウィキペディア

写真 清厳寺
清巌寺(画像提供:ウィキペディア

蒙古襲来と鎌倉幕府とは切っても切れない歴史的係累であるが、面白い史観がある。
「永仁の徳政令」による鎌倉幕府の崩壊説である。
文永・弘安の役後、幕府は功有った御家人の対応に苦慮した。当時の戦の後の報酬は敵から奪い捕った土地だった訳だが、この時の敵は外来の蒙古軍で持参の資産(軍船)も悉く博多の海に没した。
対して御家人は「蒙古襲来絵詞」等の手段により恩賞請求を幕府に迫る。幕府は打つ手に窮し終いには御家人が戦費調達用に土倉(質屋)の前身「借上」(かしあげ)から借りた所領担保の無償返還、また、これらの訴訟を受け付けないなどの御家人救済徳政令(永仁の徳政令)を発し、御家人の混乱を押さえようとした。
ところが全ては上手くいかない。対する借上は御家人への貸付を停止する。
その後の混乱は想像の通り。その後の混乱が鎌倉幕府崩壊の一因とするというものだ。
宇都宮から遠路出向いた貞綱にも同様の苦悩があったことだろう。その辺の史述は見当たらない。
画像 蒙古軍との戦いイメージ
「蒙古軍との戦い」絵…筆者

古刹興禅寺には、日本史を彩る事件がある。「浄瑠璃坂の仇討ち」である。その仇討ち事件の前に時を50年程遡る。

画像 城主リスト2
画像 土井利勝 時代は本多正純の時代。
正純は家康の参謀として信任され、重用された。俄然頭角を現し比類なき権勢を有するようになっていく。
しかしながら秀忠の時代になり、家康などの後ろ盾が無くなり、土井利勝らの台頭により権勢は弱化していく。そんな中で、宇都宮城本丸石垣の無断修理、釣天井事件などの理由で、本多家は改易、出羽の国(秋田)横手に流罪となる。
宇都宮城と言えばこの「釣天井事件」だが、事実ではなく正純が城を取り上げられ出羽へ流されたことから生まれた創作と言われている。

宇都宮の地名は先述の宇都宮氏に因んでるが、約20代500年支配してきたものの豊臣秀吉に滅ぼされる。
対し、正純は宇都宮城の城下町の造り替えを行っており、現在の宇都宮中心部の骨格はこの正純によって形造られたと云われている。

土井利勝(画像提供:ウィキペディア

古刹興禅寺に話を戻そう。
いよいよこれからが「浄瑠璃坂の仇討ち」の話に戻る。
正純改易の後、城主は奥平忠昌となる。1668年、2月29日この美作守忠昌が身罷(みまか)る。
3月2日城下の興禅寺で葬儀が執り行われたが、座上奥平家重臣の奥平内蔵允(くらのじょう)とかねてから内蔵允と不仲であった奥平隼人とが刃傷事件を起こす。

写真 浄瑠璃坂葬儀の最中、「入室」(内蔵允が…にっしつ…と解釈説明)の読み方で悶着が起きる。
文筆にも長けてはいたが、剣に勝る隼人に返り討ちされその晩の内に内倉允は憤懣の切腹を遂げる。(彼の墓がこの興禅寺の中程に在る)その後の経緯は長くなるので省略するが、隼人の処分に不満の内倉允の嫡子源八らが4年後の1672年、3月2日、今でいう新宿の浄瑠璃坂にて隼人と対決、ついにこれを討ち取る。
浄瑠璃坂とは、現在の防衛省北東部に位置し、市谷台に向かう坂がこれに当たる。

浄瑠璃坂(画像提供:ウィキペディア

筆者は昭和60年を挟む二年間、この付近の坂を通勤にて上り下りしたが、当時はこの経緯も知らず、唯の長い坂だった。
さて…時は既に徳川家綱の時代で文知政治への転換最中で、死罪は免れたが仇討ち徒党は伊豆大島への流罪という処分に落ち着く。流罪から6年後源八は千姫13回忌恩赦によって赦免され、この後彦根藩井伊家に召抱えられた。当時としてはありえない程の厚遇だった。

30年後火事装束衣装で討ち入る赤穂浪士の着想は、この浄瑠璃坂の仇討ちが参考になったとも云われている。
又、この仇討ちは「伊賀越の仇討ち」(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時大変な評判となり、江戸三大仇討ちと称された。

さて、第三次奥平氏の時代320年前の宇都宮の市民人口は、約1万人とのことで、現40~50万人から比較すると雲泥の差がある。

この忠昌治世年間承応4年(1655年)、現在の全国質屋組合連合会の会長菊池氏の会社「山貴さのや」様(東京-大塚)の原点がここ宇都宮にて創建された…という。全質連会長-菊池氏の祖先も何と宇都宮なのである。
この他、宇都宮とは関係ないが、坂本龍馬の実家が才谷屋(質屋)であったこと、土方歳三が宇都宮城南門付近で足を負傷し会津の戦に参戦できなかったとの逸話がある。

質屋と宇都宮…、まだまだ夜は更けない.

追記 頼綱の墓所 (2017.10.1)


図1 京都の三鈷寺先に質屋の史的古文書の根拠となった明月記を記した藤原定家と宇都宮頼綱の親交、そして「 かるた 」の経緯については簡単に述べた。

この宇都宮5代「 宇都宮頼綱 」( 法名 蓮生 )の墓所は、京都の三鈷寺(さんこじ)( 左図 )に在るが、当店の南に流れる田川の向かい( 下図 )の清巌寺にも中門入って直ぐ左手に菩提塔が建っている( 図3 ・4 )


図2 田川向かいの森に清巌寺が...。...。...。...。...。...。...。...。...。...。...。...。


鎌倉幕府の要職にあった頼綱は何故剃髪したのか...。


元久2年(1205)8月7日、宇都宮頼綱が謀反を起こしたという報が鎌倉に届く。頼綱は謀反など起こすことはないという書状を急ぎ鎌倉に送り、8月11日に小山朝政(ともまさ)の文も副えて〈執権〉北条義時に提出させたが、それでも疑いが晴れず、16日には潔白の証として剃髪して出家し、名を蓮生法師と改めて急ぎ鎌倉に向かっている。19日には鎌倉に到着し、義時の邸宅に参上したが対面はできず、その後結城朝光(ともみつ)に髻(もとどり)を献上し、朝光はそれを義時に届けている。結果、行き着く暇もない行動で誠意を示したことにより、義時は頼綱の罪を問うことはなく、しかしながらまだ28歳の頼綱は出家の道に入る。


元久2年(1205)に出家して京都に居を構えた蓮生は、和歌を通じて当代随一の歌人藤原定家と親しくなり、指導を仰いでいたと考えられる。『明月記』の嘉禎元年(1235)閏6月20日の記事に京都の宇都宮邸の位置が記録されており、現在の四条通りの一筋北の錦小路と新京極の通りのやや西の富小路の交わったあたりであることが知られているが、藤原定家の京極邸はその北東約1.5km弱の二条寺町にあった。蓮生と定家がこの位置関係からも親しくなれたことが頷ける。

この宇都宮清巌寺の蓮生こと宇都宮頼綱菩提塔の両脇には、「 芳賀高照( 兄 ) 」と「 高継( 弟 ) 」の墓が鎮座( 図3 )している。。
 図3 宇都宮頼綱菩提塔  図4 中門左手に墓所
 (図3 菩提塔)  (図4 清厳寺境内案内図)




(史観)…菅俣 寛 考


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